イルム通信(No.11 / 2012年6月20号発行)

 

 

ばかにすンな

佐野彰則(イルムTシャツデザイン)

 

はじめは何のことか分からなかった

 

3月に行われた2回目の報告集会に参加して、初めて自分なりに思うところがあったので、今回は自ら願い出て書かせていただく。
 通称"イルム裁判"や弁護団会議には、現在販売中の黒いTシャツのロゴを制作して以来、関わらせてもらっているが、率直な感想を言うと、はじめは何のことか分からなかった。
 しかし、周囲の人々とも関わりだして、主体的に物事を捉えていく中で、想像だにしない日本社会の閉塞的な構造が顕在化していて、自分たちはそれに慣らされてきたのだということが、厭という程分かってきた。
 そして日常的に押さえつけられ、自らを名乗ることも許されない在日の叫びが、自分にも通じているということを感じさせられ、大変心を揺さぶられる思いであった。

 

僕は精神障碍(または障害)者

 

 それというのも、僕は精神障碍(または障害)者で、今や話題の発達障碍者である。広汎性発達障碍は、自閉症の一種であり、先天的な障碍なので、生まれて死ぬまで本人の運命や宿命が決められているようなものである。

今でこそ障碍を"性分"としてあきらめ、それを”定め”として受け入れ、そして自らの確固たる理念として、より高めていかなければならないとは思っているが、かつてはそうではなかった。
 だからこそ、在日の閉ざされた感情が、自分にもわかるし、通じ合えるんではないかと思っている。
 たとえば学校や職場、また友人間という小さな社会でも齟齬が生じたり、疎外感を何度も味わってきた。
 それこそ自分のものさしでは"普通"だとは思っていたものが、現実に打ちのめされていく度に、自分はほかとは違う人間なんやということが、骨身に染みることが多くなった。

 僕が障碍者と診断されたのは約4年前、親のすすめで精神科医の診断を受けて初めて、自分がそういう別次元の人間であることを知った。
 最初はレッテル貼りをされた様で厭だったが、30代を目前にして、それこそが自分自身のアイデンティティであるとの自覚と、プライドを持って生きることを改めて考え始めた。
 また、かつては我が憂鬱感を詩に投影させていたものだが、より訴求力の高いものとしてデザインへと移行、そして社会運動にも活路を見出したのもその頃だったと思う。


☯在日のカウンセラーとの出会い

 何度目かの求職活動をしていた頃、在日のカウンセラーに出会った。
 当初カウンセラーとのやりとりは、話題が見つけられなかったこともあり、自分自身の1日の感情を5段階評価で書いて、それを1週間分まとめて隔週で出していた。
 しかし、済州島4・3事件慰霊祭に行ったことを書くと、"あなたは当事者ではない"と言われ、若干の悔しい思いも抱いたが、物事を主体的に捉えんがため、時には無自覚であることを自覚し、また時には無意識・無関心な行動をしてしまう事態もあるのではないかとも思う。
 多少前後はするが、みなさんと出逢い始めたのもその頃からではないかと思っている。
 イルムのみなさんと出逢ったのは去年の夏頃、ロゴTシャツを制作するという話を頂いてから、えいやっと思い、参加させてもらっている。


☯生活・労働・運動の場、すべてが"リハビリ"

 

さらに昨年末には、やがて丸2年をかけて再就職先にたどり着き、NDS(中崎町ドキュメンタリースペース)のみなさんとも関わりだして、生活の場も釜ヶ崎へと移すこととなった。
 初めての一人暮らしは多少の困難はあるが、出会いも多く、楽しくやっている。
 自分にとって運動の現場とは、そもそも仲間と出逢うために入ったようなものであって、今でも本当の仲間を探し求めている。そして、生活・労働・運動の場、すべてが"リハビリ"である。
 運動の場ではかつての二の轍、三の轍は踏まぬように、これまでの罪科を払拭するつもりで入ったが、どうしてもそんなに滑りのよいものではなかった。
 なぜなら緊張関係はつくらず、相互関係で仲間意識を持っていきたいとは思っていても、そう思い始めた瞬間から、あるいはその反動のせいか、対人関係で不得手な自分と現実との葛藤で、あえてその関係性を壊したり、反発心に訴えたいと思ってしまうところがあるからである。それは幼年期から友人からハミゴにされたり、自ら孤立化を図ったりした経験から、また"遅れてきた者"としての疎外感も感じていたかもしれない。


☯息を殺して生き抜くマイノリティの生存権をかけて

 

このように、これまで常に人との関わりを希求・拒絶・途絶・遮断してきたが、それでもモノづくり(映画・芝居等含め)が好きだし、友人や世間との境界性と隔絶された距離感を感じつつも、僕は僕であり続けたいとも思う。
 ちなみに現時点での障碍等級は3級だが、より多くの誇りを取り戻すため、今後は2級に申請するつもりだ。
さらにもう言うまでもなく、この日本社会において自分と同じく、息を殺して生き抜くマイノリティの生存権をかけて、障碍者運動を展開していきたい。

 

☯イルムを取り戻すことを願ってやまない


 今これを書いていて、高校の頃、YMCAにて通名を名乗る在日3世と知り合ったのを思い出している。彼とはなぜか波長が合って、仲も良く彼の家にも遊びに行っていたものだったが、彼は単位が取れずに留年を経て、高校を中退してしまった。しかし中退後も彼と僕自身は、演劇や自主映画の現場を通して関係は続いていた。
 その後、箔をつけるといってセンター試験の受験を目指していたが、どうなったかまではわからない。
 しばらく音信不通になって、ずいぶん前に電話で話した時は、自分の無理解から疎遠になり、関係もこじれてしまった。だが今ならわかる、今なら理解できるし、いずれまた逢いたい。
 また、この裁判に関わりだしてまだ間もない頃、求職活動の過程で派遣の短期雇用を繰り返して、周囲とのギャップに喘いでいた頃でもあった。
 そして派遣先で"鈴木"と名乗る渡日の青年に出会った。
 最初は変わっているなと思っていたが、言葉がたどたどしい様子だと彼は渡日の青年だったかもしれない。
 彼らもまた僕と同じく、いやそれ以上に、日本社会そのものに喘いでいたかもしれない。
 今はどうしているのか皆目わからないが、いずれ彼らが自分のイルムを取り戻すことを願ってやまない。

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裁判関連冊子できました!500円で販売中!   

 裁判は7月11日からいよいよ本人尋問という大きな山場へと入る。これまでの裁判の経緯をまとめた。

 まず稔万さんが「なぜ裁判をするのか」という主張が人々に伝わる必要がある。そこで冊子の冒頭に彼が一文を草した。稔万さんが語っているのは、本名問題の核心であり、歴史的検証であり、政治的・社会的分析である。そういう意味では必読の文だ。末尾で「この裁判は負けるわけにはゆきません。私の存在をかけた闘いであると同時に、本当は朝鮮名を明らかにしたいと思いながら、社会の朝鮮人に対する偏見や仕事上のことなど考え、ずっと耐えて通名を名乗らざるを得ない人に、「やはり通名を強要するのは間違いだ」ということを示したいのです」。この文章に稔万さんの覚悟と裁判の歴史性が出ている。

内容は次の通り。

▼中村葉子「被告側、サインも偽造-裁判経過報告」

▼石田みどり「おれは日本人じゃないし」

▼「この闘いはキツイぞ。だけど大丈夫!」

▼小西和治「勝たねばならない裁判-第7回口頭弁論を傍聴して思ったこと-」

▼「名前は、「名のる人と呼ぶ人」でなりたつ」

▼「民族学級で教えて」さん(聞き書き:中村一成)

▼印藤和寛意見書「在日朝鮮人の本名問題について」ほか。この冊子は裁判費用の捻出もかねている。1部500円。学習会にもご活用ください。(川瀬俊治)

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■口頭弁論の日程  いよいよ大詰めです。傍聴に来てくださいね!

【第15回口頭弁論】以降の予定 大阪地裁808号民事法廷

◎7月11日(水)10:30~ 尋問①A(M建設) ②B(M建設)休憩(12:30~13:30) ③Bの残り ④C(建設会社Y) ⑤D(建設会社Y)

◎7月18日(水)10:15~ 尋問①E(O組・現場事務長) ②稔万さん(尋問70分、反対尋問80分) 休憩(12:30~13:30) ③稔万さんの残り ④F(M建設社長)

■弁護団会議 空野佳弘法律事務所

 6月26日(火)・7月9日(月)19:00~