イルム通信 No.16 2011年7月25日

第4回「イルム裁判学習会」(6月28日)

朴実さんの講演-その思い受け継ごう

 

川瀬俊治(事務局)

 

イルム学習会に朴実さんを

 

大阪高等裁判所の控訴審の口頭弁論が始まり、今日725の第2回口頭弁論が決まってから、学習会をするにあたって「本名―通名」問題で一番説得力をもつ講師は誰かということになった。さんが最も推薦したのが、京都の朴実さんだった。

 

628日(金)午後6時半、釜ヶ崎の「ふるさとの家」で始まった4回学習会に50人近くの方々がつめかけた。朴実さんが大阪で講演することはこれまでほとんどなかったから、この機会に聞きたいと思われた方も少なからずおられたと思う。

 

 朴実さんを描いたドキュメンタリー『我が名は朴実』(MBS19861214日放映、第7回「地方の時代映画祭」特別賞受賞)を観たあと、講演に移った。

 

 実は朴実さんは朝鮮名・民族名を取り戻す裁判を2回行うことで勝ち得たものだ。

 

 1944京都市東九条で在日2世として生まれ、極貧の生活のなか、音楽とめぐり合う。ドキュメンタリーでは夜、誰一人いない高校の校舎で懸命にピアノを弾く姿が描かれていた。

 

なぜ朴実さんは音楽と出合われたのか。おそらく音楽の世界には差別もなければ肩書きも関係ない。純粋な音の連なりが「異なる世界」を創り出すからだろう。

 

独学でピアノをマスターされ京都市立芸術大学に入学される。同じ京都で育った3つ年下の私の10代と比べれば「月とスッポン」の違いがある。

 

ここまで朴実さんを懸命にさせた音楽は、彼を救ったに違いない。精神の高みに自分を向けた違いない。

 

私は韓国のテレビドキュメンタリーで朴実さんを描いた作品を観たことがある。10年以上も前のことだ。途中、朴実さんは突然嗚咽された。その場面をいまも鮮明に記憶している。なぜ嗚咽させたのか。「様々な思いがあるからだ」と漠然とした解釈は止めよう。

 

朴実さん半生で受け止めて耐えていた思い、くやしさがとめどない涙となって流れたのだろう。

 

 

もう一人を映し出す鏡

 

日本国籍朝鮮人として自分が朝鮮人であることで日々向き合えるのは、名前を取り戻すしかない。それまでの苦闘。心無い誹謗、中傷。朝鮮人であることでどうしてこんなに涙を流させねばならないのか。それもドキュメンタリーを映すカメラの前で。

 

実はカメラのレンズはもう一人を映し出す鏡だからだ。自分を映し出す残酷さがカメラにはある。そこで自分はどう表現すればいいのか。涙しかない。

 

この苦闘に共振するその人が金稔万さんだった。私はどれだけ聞かされたか。「朴実さんはすごい」「ぜひともお話を聞きたい」。裁判でめぐり合うべき人だった。朴実さんの涙は金稔万さのものだった。

 

 

この思いをどうか裁判官よ、被告企業よ、気付いてほしい。聞き耳をたててほしい。

 

問題は裁判でどう一連の経過の中で事実で証明し、気付かなかった姿を白日の下にあらわにするかである。裁判は大詰めを迎えている

 

 

朴実さんの講演の後、弁護団の奥田愼吾さんから控訴審1回口頭弁論の内容の説明があった。

 

続いて、学習会に参加したみなさんの中から裁判への連帯のアピールがあった。学習会終了後の懇親会にも多くのみなさんが残ってくださり、裁判への思いを語り合った。

 

 

 

 

【資料】
甲第52号証 陳述書
2013年7月12日
                住 所 尼崎市●●町●-●-●-●
                氏 名 金稔万 印

大阪高等裁判所第12民事部ロニ係 御中

            記
1,ここでは一審であまり触れることのできなかった幾つかの点に絞って述べさせていただきたいと思います。

2,まず、早朝5時、あいりん総合センターのシャッターが開くと同時に、その日の人員を確保するための人夫出し業者の車が続々と入って来ます。車のフロントガラスにはプラカードが張ってあり、それには必ず「現金」か「契約」のどちらかが書いてあります。「現金」というのは、その日の仕事が終わったらすぐに文字通り現金で日当が支給される日雇い労働の形態です。基本的に日雇い労働者はその日ごとに雇用され労働しその日ごとに解雇されては、また次の日にセンターで仕事を探すということの繰り返しです。その半面、「契約」は、その日ごとの雇用・失業を繰り返すのではなく、一定期間、飯場に泊まって仕事をすることになります。
 「契約」の仕事は、日雇い労働者にとって二つの点で過酷です。第一に、給与の支払いは契約期間が満了するまでありません。また、飯場に滞在する期間のあいだ毎日宿泊費と食事代、雑費を合わせた「飯代」(一日合計3300円~3500円くらい)を引かれるのですが、契約日数とは現場で働いた稼働日数のことであり、飯場での滞在日数はそれを超える場合が殆どです。私は以前、10日間の「契約」の仕事に行ったことがあるのですが、1週間ほど飯場に滞在するなかで、毎日仕事があるわけではなく、そのまま居ても飯代ばかり引かれて赤字になってしまうので、契約不履行と怒られながらも途中で出た経験があります。
 こうした事情から、不安定な雇用を強いられる日雇い労働者の多くは、流動的であるにも関わらず「現金」の仕事を求めます。そのため、「現金」の仕事は競争率が高く「アブレ」る恐れもあります。中には「アブレ」ないように、午前3時からセンターの前に来る労働者もいますが、私はふつう5時半から6時の時間帯に到着するようにしていました。
そのように、他の労働者たちと一緒にセンター前に着いて待っていると、手配師に「現金行こか」などと声を掛けられ、そこで「行く」と承諾した段階で「現金」の労働契約が成立するのです。人夫出しの業者はそうして必要な人員が満たされるまで労働者を車に次々と乗せ、人員が揃うと業者はそれぞれの工事現場の朝礼に間に合わせるため急いで出発します。
 しかし、「現金」の場合でも、次の日に仕事がある場合は、手配師が日当をくれるときに、「明日もくるか」と言ってくることもあります。承諾すれば、次の日の契約も成立し、朝早くセンターに行かなくても「アブレ」なくてすみます。もちろん、何も言われない時は、次の日に同じ業者との仕事はないことを意味します。一度働いて手配師に自分の携帯電話の番号を教えると、その後も同じ手配師から電話がかかってくることがあります。昼勤の場合は前日もしくは当日の朝、夜勤の場合はその日の午前、もしくは午後に手配師から電話がかかってきます。そして労働する旨、承諾すればその時に契約が成立します。
 M建設での私の雇用は、2008年12月13日からで、丁1のとおりです。12月13日の朝、7時頃「現金」の仕事が見つからず諦めて帰ろうとした時、あいりん総合センターで、自転車に乗ったAさん(仮名)が、「現金行けへんか。」と声をかけてきました。その後の経緯については、既に陳述書(甲36)で述べておりますが、若干補足させていただきます。
 いったん手配師であるAさんの今宮事務所に行って、メモ(丁7)を書きました。それから、労働者の集合場所になっている新今宮駅の東口に行き、Bさん(仮名)にヘルメットの本名のシールを貼ってもらい、そこから電車で現場に向かいました。他の手配師の多くは車で労働者を現場まで送迎していましたが、M建設の場合は、電車で現場まで行くのが常でした。電車賃はすべて自分持ちでした。12月13日は、現場に行ってから、丙5のような新規入場者アンケートを作成し、氏名欄には、当然本名を記載しました。その後も、O組の工事現場(神戸居留地《2日間》と食品流通センター《1日》以外)では、工事現場が変わるたびに、新規入場者アンケートを作成し、当然ながら本名を記載してきました。
 なお、M建設は、同じ在日であるという理由から私に優先的に仕事をまわしていたと言っていますが、丁1を見れば分かるとおり、私は常にM建設で働いていたわけではありません。空いている期間は他の日雇いの会社で働いていました。Aさんが電話をして日が合えば、その日ごとにM建設との日雇い労働の契約が成立していただけのことです。現場の需要に応じて流動的に仕事の増減が激しい日雇いの世界においては、一般的なアルバイトや日雇い派遣の世界とは違って、面接や登録のようなものをするために日雇い会社の事務所にわざわざ行くようなことはありえないことです。
  
3,次に、本件で問題となる2009年9月29日、私が某・梅田の百貨店の第2期工事で通名を強制された日に、M建設のM社長とは一切会っておらず、M社長は百貨店建替え工事の現場にも来ていなかったことについて述べます。
 JR新今宮の東口に待っていたボウシン(班の責任者)のCさんと他の労働者と3人で百貨店建替え工事の現場へ向かいました。環状線でJR新今宮駅からJR大阪駅へ行き、中央口から降りてハートインで、Cさんに「ここで弁当買っときや」と言われて、弁当を買いました。そして、百貨店ビルの東角付近の2期工事現場の入場口まで向かいました。入場口の左側に工事車両の出入り口がありガードマンの詰め所があって、車両の出入口や工事関係者用の入場口を厳重に監視していました。
 工事関係者用の入場口にはドアがあり、Cさんがドアの4ケタの暗証番号を押して、3人一緒に中に入りました。中に入ると階段があり、階段の右手に指紋認証システムの機械がずらーと並んでいました。私は1期工事で本名で指紋認証システムに登録済みでしたので、指紋を認証リーダーの部分に押し当てて、午後9時36分に入場しました(丙8)。その時はディスプレイには「金稔万さんご安全に」と表示されていました。
 その後、私はリュックサックに入れて用意してきた作業着に着替え弁当を食べて、夜礼に参加しました。夜礼が始まったのは午後11時ちょうどでO組の歌が大音量で流され、柿色の制服を着たO組の社員たちが最前列に並んで、ラジオ体操が始められました。体操が始まるとO組の社員は「真面目にしない奴は帰れ」などと怒鳴ったり、また防塵マスクやゴーグルなどの検査も厳しく、指紋認証システムでの入退場もあり、他になく威圧的な現場に感じられました。もちろん、O組の社員も下請けも孫請けも全員が集合して夜礼は行われたのです。
 M建設の社長はこの時の夜礼に参加していたと言っていますが(丁10・6頁)、夜礼の際、各業者の社員はその業者ごとに一列に整列しその日の人員や工程や作業を行う場所や注意事項を報告します。M建設の従業員も全員、縦1列に並ぶので、もしもMの社長が並んでいたらすぐ分かるはずです。しかし、社長の姿はどこにもありませんでした。夜礼の後、建設会社YのDに呼ばれて、O組の現場事務所に行き、指紋の登録をし直しました。その場にM社長が立ち会うこともありませんでした。阪急百貨店の1期工事、2期工事を通じて、私は阪急百貨店の工事現場でM社長を見たことはありません。
 私がM社長に会ったのは陳述書で書いたとおり、毎日放送豊崎ビルの工事のときの1度だけです。それ以外は、本件裁判で相対するまで1度も会ったことはありません。なお、Mの関係者は尋問などで9月29日が二期工事の初日だった旨、証言していますが、私が従事した二期工事現場はすでに開口部が開けられており、工事初日ではありませんでした。

4,次に、控訴審で提出した甲44と甲47について述べます。
 私は2009年9月12日に中崎町の家を引き払って、尼崎市に引越しました。中崎町の家の明け渡しの時、仲介業者である松島商会の代表者、松島さんが立ち会ってくれました。このことを証明するために甲44を作成をしてもらい、名刺(甲47)も頂いてきました。

5,次に、私の父母と祖父母の韓国の戸籍に「創氏改名」が記載された跡が残されていることについて述べます。
(1)甲30の1は植民地時代に作られた父母や祖父母が記されている戸籍謄本です。これは私がこの裁判が始まったのを契機に自分の通名である「金海」の由来がどこから来ているのを調べるために、実際に自分の本籍地である済州島(チェジュド)の翰林(ハルリム)邑の役所に行って複写してもらったものです。役所の担当者に、「日本から来た在日朝鮮人2世で自分のルーツを知りたいので先祖の除籍謄本を調べたい」と言うと、親切に対応してくれました。古い謄本はマイクロフィルムで保存されており、身分を証明し、規定の料金を支払えば複写することができました。
まず、父方の除籍謄本の写しを受け取ったのですが、驚いたのは戸主の名前「金斗玉」に大きく「×」(バツ)が付けられ、その横に通名が書かれていることでした。甲30の1の2頁の主戸欄の「金斗玉/김두옥」(キムドゥオク)は祖父の本名です。その右に「金海光英」(かねうみみつひで)と記載されていますが、これは祖父が「創氏改名」政策によって、日本式の氏名と氏族制度の中に編入させられていたという証しです。それは、事前に参考図書として読んでいた、水野直樹著『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で』(岩波新書、2008年)に掲載されている写真と全く符合する「創氏改名」の生々しい痕跡だったのです。(甲48)
ああ、やっぱり私の祖父も「創氏改名」され、その時つけられた「金海」という通名を70年たった現在も、日本に渡った父も、孫である私も、曾孫である子どもたちも4世代にも渡って引き続いて背負わされているのか。もし、祖父たちがそのことを知ったらどう思うのだろうか。そして、また祖父母たちが生きた植民地統治下の済州島でどのような状況で「創氏改名」をさせられたのかに思いを馳せました。
戸主だけでなく、配偶者である祖母である「金麗玉/김려옥」も「創氏」されています。本来ならば婚姻しても姓が変わらなかった朝鮮の女性に対しても、その当時、朝鮮総督府による改正朝鮮民事令は例外なく、「創氏」された配偶者の日本式の名字が強制されたのです。また、戸籍をよく見ると「創氏」を届けた日が違っていたり、「改名」がされていない場合もありました。母方の祖父「姜太玉/강태옥」(カンテオク)は「創氏」は届けていますが日本式の名前に変える「改名」はしていません。こんなふうに植民地時代に祖父母も父も母も、いろんな葛藤を抱えながら不条理にも突然、名前を変えられ、どのような心中であったかと思うと胸が痛みます。しかも日本に渡った子孫が、こうして解体工事の現場の末端で何の理由も聞かされずに名前を変えられ、本名を名乗るために裁判をしているのを知ったら本当に情けなく、残念に思うに違いないと思います。私は祖父とは父方、母方とも残念ながら会うことができませんでしたが、父方の祖母とは会ったことがあります。  
それは、私が20歳の時、初めて故郷である済州島を訪れた時でした。祖母は、初めて私の顔を見て、私が日本語しか話せないことを知った時、泣き崩れ、「孫がチョッパリになってしまった」と嘆いたのでした。当時、朝鮮語の解らない私にも「チョッパリ」ということばが日本人を指すことは解りました。私の体を触りながら祖母が何度も「チョッパリ」というのを聞き、私は悲しくここに来るべきではなかったのか、どこかに隠れてしまいたいと思ったのでした。それは、自分が名前だけでなく言葉も奪われていた、そのことに気づく機会すらも奪われていたという事を突き付けられた瞬間でした。

(2)先ほどの水野直樹著『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で』によると、朝鮮半島では1946年10月には朝鮮姓名復旧令が公布・施行され名前は朝鮮姓名に戻りました。その痕跡も私は確認することができました。「金海光英」の上にも線が引かれていますが、これは韓国では解放後、法令で「創氏改名」が廃止され当然のことながら元の朝鮮姓名に戻ったからです。それを見て私は、この裁判が始まって、被告らから何故、私が外国人登録証明書から通称名を削除しなかったかを問われて悔しかったことが思い出されました。私は外国人登録証明書から通称名が抹消できることを知りませんでした。それまで誰にもそんなことを聞いたことがないし、教えてもらったことがなかったのです。14歳から3年あるいは5年毎に外国人登録証明書を切り替える時も、そのことを役所の窓口の職員に一度たりも教えてもらったこともなければ、何の案内も掲示も見たことはありません。そのことはこの裁判の中で初めて知ったのです。韓国から戻り、2011年4月18日、私は尼崎市役所の外国人登録係に行き、通称名の削除の手続きをしました。(甲49)その時も、私自身が外国人登録証明書の通称名を削除する旨を係りの職員に告げて、初めて手続きすることができたのです。(甲50)
(3)甲30の1の5頁の「至富/지부」(チブ)は私のアボジ(父)の創氏改名される前の本名で、やはり同じようにバツがついていて、その右に創氏改名時代の「昌男/창남」(まさお/チャンナム)という名前が記載されています。現在の父の本名は、「正三/정삼」(チョンサム)で、同じ欄の右上に記載されています。私のアボジも幼いころに「創氏改名」させられていたのでした。翰林邑の役所を後にして、私はかつてアボジが通っていた翰林初等学校に行きました。アボジの学籍簿の名前を確認したかったからです。教頭に事情を話し、1930年生まれのアボジが1940年に10歳であり、「創氏改名」当時、4年生くらいだったという手掛かりだけで探してもらいました。なかなか見つからなかったのですが、20期生の卒業生として父の「創氏改名」された「金海昌男」という名前を見つけました。教頭も見つけた時は「本当だ、本当だ」と言ってびっくりしていました。
 私のアボジは10歳の幼い時に「創氏改名」された直接の被害者だったのです。しかも、その卒業名簿を見るとクラス全員の名前が朝鮮的な日本名に「創氏改名」させられていたのです。10歳の幼い少年が名前を変えられ、当時の植民地済州島で皇国少年として生きざるを得なかった思いを私はどう理解すればいいのでしょうか。私のアボジは、日本に住んでいるのやから日本名なのは当たり前だとよく言います。私がこの裁判を闘うことも反対しているのです。しかし、それはアボジがこの日本社会で民族差別を避けるために日本名を名乗り、家族を養うために商売をせざるをえなかったためではないでしょうか。

6,最後に、私が通名から本名をどのように名乗るようになり、各種証明書などの氏名欄を通名から本名に変更してきた変遷について述べます。
 私は、2001年4月11日には、運転免許証の名前を本名に変えています(甲45)。甲45に載っている2001年4月11日付の免許証の氏名欄に「金年員」(김년원/キムニョヌォン)と記載されていますが、これは以前の本名です。甲31の除籍謄本の稔万の欄に、1993年9月24日、済州地方法院で「年員/년원」を「稔万/임만」(インマン)に改名した旨の記載があることからも、「年員」が以前の本名であったことがわかります。まず、運転免許証から通称名を除外したのは、運転免許証が一番身分を証明するのに頻度が多いし、また求められることも多いからです。それから、更新の手続きの時に名前を変えられることが明らかに解かったからです。(甲51)
 私は、運転免許証の名前を本名に変更した後、いろいろなカードや証明書、その他、名前を要する手続について、ひとつひとつ本名に変更していきました(甲32の1乃至甲32の20)。このように通名から本名に変えていくのは同時に一斉にできることではありません。時には煩雑な手続きや説明を伴い、ひとつひとつ変えていくのは時間がかかるものでした。そして、本名を名乗るようになった私にとって最後まで、変更が難しかったのは銀行口座の名義でありました。なぜなら、いままでの父親の家業(靴底の製造業)を手伝っていた関係もあり、アボジが銀行からの融資にとても苦労し、神経質になっていたのを目の当たりにしていたことや、口座には通名を名乗っていた時の関係先からの送金等もあったりするので、なかなか難しかったのです。しかし、それでも私は、銀行口座も本名で作りなおしました(甲32の1、甲32の2)。それは、生活と密着している職場や仕事での人間関係だからこそ、本名を使い、本名で呼ばれ、本名を当たり前に名乗ることを実践していきたいと思ったからです。
 このように紆余曲折がありながらも、私は通名から本名へと変えていきました。それは、私たち在日朝鮮人2世は1世たちが差別と抑圧の中で本名を名乗れず、通名を使わざるをえなかった苦難の歴史を肌身にしみて感じているからこそ、次の3世、4世の若い世代に1世たちの苦悩の歴史や記憶を包み隠さず伝えなければならないという思いがあるからです。1930年に生まれたアボジはもう83歳になりました。あれほど、日本で暮らすのだから日本名は当たり前だというアボジが神戸の西神墓苑に刻んだ墓の墓碑銘は本名の「金正三」なのです。1世たちの黙して語ることのない思いを背中で感じている私たち在日朝鮮人2世が、差別から逃れるのではなく、1世たちの記憶を次の在日の世代に伝えるためには、まず自らの本名を取り戻し、本名を名乗ることから始まるのです。
 そして、隣人であり共に暮らす日本人にとっても、在日朝鮮人をごく自然に当たり前に本名で呼ぶことから、お互いの自尊感情の大切さに気づいていくのだと思います。これまで在日朝鮮人にとって、最も基本的な本名を名乗るということが、個々人のつよい意思と努力よってのみ担保されて来ました。しかし、自らの本名をごく自然に当たり前のように名乗るのにつよい意思と努力が必要とされる社会とはいったいどういう社会なんでしょうか。「創氏改名」は解放直後、朝鮮半島の南北においては無効の法的措置がとられましたが、ここ日本では法令によっても未だ閉じらていないのです。私が尋問において、「できたら、もう一回登録している指紋を本名に戻してほしいと思います、今からでも。要求したいと思います。戻してください。戻して当然だと思います。」(本人調書P13)と言ったのは済州島の翰林邑の役所で初めて見た除籍謄本が脳裏に鮮やかに浮かんだからでした。 
昨今の日本社会に湧き上がってきたヘイトスピーチやレイシズムの潮流のなかで、名前を名乗りそして呼ぶことが単に個人の良心の領域や裁量にとどめられるのではなく社会的営為として、日本社会の公共性において司法が法的に根拠づけなければならないと思います。そうして、若い日本人と若い在日の世代がお互いの文化やアイデンティティーの差異を認め合うことから、多文化共生の社会は実現されるのではないのでしょうか。

以上

 

「金稔万(きむいんまん)さん

 

本名(民族名)損害賠償裁判」控訴審第回口頭弁論

 

日時:725日(木)11:00~(9:30~付近でビラまき)  

 

別館南側玄関前<抽選>当日午前10:2010:30までに上記場所に並ばれた方を対象に抽選券を交付します。http://www.courts.go.jp/search/jbsp0010?crtName=8

 

場所:大阪高等裁判所別館74号法廷(高民12民事部ロニ係)

 

問合せ:金稔万さん本名(民族名)損害賠償裁判を支援する会 06-6647-8278 090-9882-1663(藤井)

 

ホームページ http://irum-kara.jimdo.com/

 

 

 

第4回「イルム裁判学習会」を開催しました!

 

ドキュメンタリー『我が名は朴実』上映 7回「地方の時代映画祭」特別賞受賞(MBS19861214日放映)

 

講演「民族名で生きる」

 

朴実(パクシル)さん(音楽家・元「民族名を取り戻す会」)

 

解 説:弁護団(空野佳弘さん・奥田愼吾さん・弘川欣絵さん)ほか

日 時:628日(金)1830開場、19:0021:00

場 所:ふるさとの家(大阪市西成区萩之茶屋3-1-10

 

06-6641-8273

 

JR環状線「新今宮駅」/南海「萩ノ茶屋駅」

 

地下鉄「動物園前」下車 

 

西成警察署斜め前、西成消防署出張所隣 

 

参加費:1000円・学生500円・非正規雇用者は無料(終了後、交流会・飲食代別)

 

主催:金稔万さん本名(民族名)損害賠償裁判を支援する会・弁護団(空野佳弘・奥田愼吾・弘川欣絵)

 

 

 

【関連行事】

 

軍隊と性奴隷の歴史に終止符を!「私はフィリピンで日本軍の姓奴隷にされました」

 

 今集会は、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動が提起している、「8.14日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連記念日に!!」の全国同時行動のひとつとして開催されます。

 

 8月14日は、1991年に韓国の金学順さんが日本軍「慰安婦」被害者として初めて名乗り出た日です。この勇気ある告発がきっかけとなって、アジア各地の被害女性たちも半世紀の沈黙を破り、日本政府の責任を問い始めました。2012年12月、第11回アジア連帯会議が台湾で開かれ、この日を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」とすることが決まりました。

 

日 時:8月14日(水)18:00~

 

場 所:大阪市立住まい情報センター

 

     地下鉄「天神橋筋6丁目駅」下車、すぐ

 

資料代:一般800円・学生400円

 

主 催:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク http://www.ianfu-kansai-net.org/